2018年11月16日金曜日

領土問題はどうやって解決されるのか?

ここ数日、安倍首相とプーチン大統領の会談内容が
話題になっています。
北方領土の返還に向けて大きな動きがあるのか、、、

さて、ロシア(旧ソ連)は以前、中国との国境問題を
抱えていました。
現在は解決しています。
どうやって解決したのでしょうか?

ソ連と中国の領土問題として有名なのは
ダマンスキー島(珍宝島)事件です。
1969年3月 アムール川(黒竜江)の支流の中州である
ダマンスキー島(珍宝島)の領有権を巡り大規模な
軍事衝突が発生しました。

中ソの全面戦争および核戦争に発展するかと思われるような
重大な軍事的危機でした。

その後、
1969年9月に北ベトナムのホー・チ・ミン国家主席の葬儀に参列した
ソ連コスイギン首相がハノイからの帰りに北京に寄り
周恩来首相と会談したことで、国境への軍の配置は継続されつつも
軍事的緊張は緩和されました。

そもそもの原因は、帝政ロシア時代、清王朝時代に締結された条約での
国境に関する事項に不明瞭な点があり、
両国の認識が一致していなかったことにあるようです。

■両国の国境問題解決までの流れ

1989年
 ゴルバチョフ大統領の訪中により中ソ国交が正常化し、
 全面的な国境見直しが始まった。

1991年5月
 中露東部国境協定が結ばれ、極東の大部分の国境が確定。(1992年批准)
 双方が管理下にあると主張したダマンスキー島(珍宝島)は、
 中国への帰属で合意。

1991年12月
 ソ連崩壊

1994年
 江沢民国家主席とエリツィン大統領により、中露西部国境協定にて
 中央アジア部分に関する国境が画定した。

1997年11月
 北京で江沢民・エリツィン両首脳会談で東部国境の画定作業の終了が宣言。
 この時、中露国境地帯での経済協力が合意され、中露のパートナーシップが
 強調された。

1998年
 西部国境の画定作業の終了が宣言。
 これにより、タラバーロフ、大ウスリー、ボリショイの3島を除き国境が画定。

2001年7月
 プーチン、江沢民両首脳により中露親善友好協力条約に調印。
 両国の協力関係推進を誓約している。

2004年10月
 プーチン大統領と胡錦濤国家主席の間で最終的な中露国境協定が結ばれ
 未確定地域として残っていた3島の帰属が決定。

 1991年の中露東部国境協定で棚上げにされていた
 3島(タラバーロフ、大ウスリー、ボリショイ)は、
 アムール川・ウスリー川の合流点では係争地を2等分するように
 分割線を引き、
 タラバーロフ島全域と大ウスリー島の西半分は中国、
 大ウスリー島東半分はロシア、
 ボリショイ島は、両国で2等分された。
 この協定は2005年に両国で批准された。
 これにより両国は2国間の国境問題は解決したと発表。

こうして、ユーラシア大陸の約7300kmにおよぶ中露の国境地帯は
両国の安定と協力関係に寄与するエリアとなりました。

こうして、国境問題が解決するまでの流れを見ていると、
国境地帯を安定させることを最優先に
相互の信頼関係を構築しつつ、
はじめからすべてを合意するのではなく、
できるところから着々と解決していった様子がわかります。


最終的な国境問題として最後まで先送りされてきた
タラバーロフ、大ウスリー、ボリショイの3島の帰属問題の解決は、
これらがロシアが実効支配していたエリアであることから、
ロシアが大きく譲歩したとの見方があるようです。
ただ、
2001年7月に調印された中露親善友好協力条約では、
1997年に画定した国境線が最終的なものであり、
今後一切の領土要求をしないと誓約し、
中国国内で主張されていた沿岸地方などの領土要求について
公式に放棄された点は中国側の努力も見られると
言えるのではないでしょうか。

中国とロシアの国境問題の解決は、
日本とロシアの北方領土問題について考える
参考事例として知っておくのもいいかもしれません。